ヘブル6章
6:1 ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、
6:2 きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。
前章で固い食物と対比されて「乳」が取り上げられていましたが、その乳がどのようなものであるかがここに具体的に示されています。それは、キリストについての初歩の教えと言い換えられています。これは、イエス様を信じた者についての初歩の教えのことです。
死んだ行いからの回心は、神から離れていて、そこから立ち返る回心のことです。
神に対する信仰は、神がキリストをよみがえらせたことを信じる信仰です。それによって義とされます。最初の段階です。神の存在については、彼らは、ユダヤ人ですので初めから信じています。
清めの洗いは、旧約の儀式に基づきますが、これは、キリストについての教えであり、実際の清めの洗いではなく、霊的な比喩として、御言葉によって清めることです。
手を置く儀式は、旧約の捧げ物に手を置くことが行われたことに基づいていますが、これもキリストについての教えですので、実際の儀式を行うことではなく、その儀式によって現される比喩としてキリストによって神に受け入れられることを表しています。
死者の復活は、死者がよみがえることに関する教えです。
永遠の裁きは、神を信じない者が入る裁きのことです。
これらの教えは、いずれも、人が神に受け入れられるという初歩の教えに関することです。信者が神の御心を行って、自分を捨て、御霊によって歩むもっと高度な教えを含んでいません。このような教えにとどまっていては、成熟することができません。
今日、クリスチャンと言われる人々の中にも、同様に、永遠の滅びからの救いについての教えは持っていても、自分を捨て、聖霊によって神の御心を行うという教えの中に生きていない人々がいるのです。
・死んだ行いからの回心→ユダヤ人は律法を守る社会に住んでいます。しかし、イエス様のご在世当時、ヨハネとイエス様が指摘されたように、悔い改めが必要でした。これは、悔いるという意味ではなく、考えを変える、向きを変えるという意味で、悔いる意味はありません。今まで、神から離れて生きてきた心や歩みを変えて、神に向くことです。形式だけの信仰と偽善がはびこっていたのです。そのようなことを捨てて、神に向かうのです。
・神に対する信仰→ユダヤ人は、神を信じていると言いながら、神から離れていました。彼らは、神がイエス・キリストをよみがえらせたことを信じて義とされたのです。また、イエス様が神の子であることを信じて義とされたのです。ちなみに、イエス様がおいでになる以前の期間に関しても、神に対する信仰によって義とされるのです。
ローマ
4:13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。
4:14 もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。
4:15 実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。
4:16 そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。
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信仰によって世界の相続人となることは、アブラハムにもその後の子孫にも適用されることです。さらには、律法を持たない人々にも保障されます。全てが信仰によることが示されています。
・きよめの洗いについての教え→きよめの洗いは、旧約の儀式です。新約に適用されません。「教え」と記されているように、旧約の儀式を引用して、比喩として教えられていることを意味します。清めの水は、祭司や捧げものを洗う洗盤の水と、ツァラートの清めのため等に使われる清い水です。いずれも、信者を御言葉によって清めることの比喩です。
・手を置く儀式→儀式と記されていて、旧約の儀式であることが分かります。これも、この儀式が教える比喩を示しています。手を置く儀式は、全焼のいけにえの上に手を置くことと、祭司の任職にあたって手を置くことが行われました。一つは、全焼のいけにえ、もう一つは、罪のためのいけにえです。その人の代わりに受け入れられることと、その人の罪の清めを表しています。これは、キリストによる受け入れについての教えです。
・死者の復活→死者が復活することの教えです。
・永遠のさばき→神を信じない者が受ける永遠の裁き。
6:3 神が許されるなら、先に進みましょう。
「神が許されるならば、私たちは(必ず)これをします。」
すなわち、基礎的なことをもう一度やり直すことが許されるならば、これを必ずします。
神が許されるならばと断った理由については、次節に記されています。それは、堕落してしまった人たちは、その基礎的なことさえやり直す必要があったのです。
6:4 (なぜならば)一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、
6:5 神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、
6:6 堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。
基礎的なことをやり直す必要がある人たちがいたことが理由として示されています。天からの賜物と、神の素晴らしい言葉と、来るべき世の力を味わった人々は、聖霊に与った人たちです。そのような人でも、堕落したならばもう一度悔い改めに立ち返らせることはできないからです。
聖霊に与るとは、聖霊の仲間になることを意味する言葉です。これは、当然聖霊を受けた者のことであり、聖霊に導かれて、聖霊を受けた者に相応しい歩みがあったことを表しています。これは、天からの賜物を味わうという信仰者が経験する祝福を経験したこととして語られています。ですから、彼らは、信仰によって、永遠の滅びから免れた人たちです。そのような人たちが道から逸れたのです。彼らは、永遠の滅びに入ることはありませんが、御国において報いを失います。
ここでは、「悔い改めに立ち返らせることができません」と記されていて、悔い改めに立ち返らせることができないことに焦点が当てられています。
これは、先に触れたように当時のユダヤ人の特殊事情によります。ここで言う堕落は、キリスト者として歩むことをやめて、ユダヤ人社会に戻ることです。彼らは、かつて、悔い改め、バプテスマを受けてキリストを十字架に掛けた罪を赦されたのです。それで、聖霊を受けました。ユダヤ人社会に戻ることは、キリストを十字架に掛けた者たちの仲間に戻ることで、再び十字架に掛けた罪を負うことであるのです。彼らは、もう一度十字架につけた罪を悔い改めますと言うことができないことが指摘されています。彼らは、それを承知で道を外したからです。そのような者になっても構わないという考えの人を、もう一度そのような罪を捨てて神に立ち返るという考えに変えることはできないのです。
なお、これは、彼らが信仰を捨てたということを意味していません。また、初めから信仰がなかったと決めつけることもできません。彼らは、聖霊を受けていますが、なお、ユダヤ人社会にとどまる生き方をするのです。
使徒
2:36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
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・「堕落する」→道を逸れる。
6:7 (なぜならば)たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、
6:8 茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです。
雨は、御言葉の比喩です。それを吸い込んで、耕す人である神のために作物としての霊的実を結ぶならば、神の祝福に与ります。
一方で、茨やあざみを生じさせるならば、呪われて、焼かれてしまいます。これは、永遠の滅びを意味します。
なお、一度信じた者が永遠の滅びに入ることはないとする教えは、この場合には当たりません。キリストが神の子であることを否定する者が永遠の滅びに入るのは当然なのです。
6:9 だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。
彼らが信仰を否定することになる可能性があることを示し、強く警告しました。しかし、ヘブル人の教会については、救いにつながることを確信していました。この救いは、約束のものを手に入れることです。それは、希望です。天の資産を受け継ぐことです。それは、もっと良いことです。永遠の滅びに入らないだけではありません。永遠の報いとしての資産を受け継ぐのです。
6:10 神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。
神様は、彼らの働きと愛を忘れることなく、応えてくださいます。彼らは、聖徒たちに仕え、今も仕えています。それは、神の御名のために示した愛です。そのように神を愛する者を神は守られます。ますます御名の栄光が現れるように用いられるのです。
6:11 私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、
6:12 その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。
彼らに切望することは、彼らが同じ熱心を示し、希望について確信を持ち続けることで、鈍くならないため、すなわち与えられている希望に対して無反応な者にならず、約束のものを相続する人たちに倣う者となるためです。すなわち、相続するためです。彼らは、信仰と忍耐によって歩んでいます。
希望について熱心であることは、御国で報いとしての資産をぜひとも獲得したいと願うことです。
確信は、その報いが必ず与えられるという確信です。その人にとっては、その報いは間違いないものであり、必ず頂きたいと願っているものなのです。ですから、まず、その報いに強い関心を抱くことが必要なのです。宝を天に積むのです。心がそこにあるからです。
そうするならば、神の言葉に対して無反応になることはありません。御言葉を受け入れて従うことが、報いを受ける道であるからです。それで、信仰によって歩みます。また、忍耐して歩みます。
・「怠け者」→鈍い。比喩的に、怠ける、怠惰等の意味がある。
6:13 神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、
6:14 「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。
6:15 このようにして、アブラハムは忍耐の末に約束のものを得たのです。
そして、アプラハムの例を引きました。彼は、忍耐の末に約束のものを手に入れました。主は、誓いをされてそれを保証されたのです。
6:16 確かに、人間は自分より大いなるものにかけて誓います。そして、誓いはすべての論争を終わらせる保証となります。
6:17 そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました。
神は、信仰者が約束のものを相続するために誓われたのです。人の間でも、誓いは、確かな保障となります。そこで、神は、ご自分の計画が変わらないことを誓いをもって保証されたのです。
6:18 それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。
信仰者は、御国において報いを相続する希望を捕らえようとしています。神は、約束と誓いをもって保証されました。その二つにより力強い励ましを受けます。神が、その約束と誓いの二つについて偽ることはないからです。
6:19 私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。
この希望のゆえに、たましいは流されることがないのです。その希望が錨のようであるからです。流されないだけでなく、幕の内側として示されている天にまで至るのです。
6:20 イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。
イエス様は、すでに先駆けとしてそこに入られました。人として、相続を望みとして信者の先駆者として歩みを全うされたのです。そして、今、天にて大祭司となられています。その大祭司については、メルキゼデクの例に倣う方として紹介されています。このことについて、次章以降に説明されています。
■手を置く儀式
出エジプト記
29:10 あなたは雄牛を会見の天幕の前に近づかせ、アロンとその子らはその雄牛の頭に手を置く。
29:15 また、一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。
29:19 もう一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。
レビ記
1:4 その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。
民数記
8:12 レビ人は、雄牛の頭に手を置く。そこであなたは一頭を罪のきよめのささげ物として、また一頭を全焼のささげ物として主に献げ、レビ人のために宥めを行う。